『自己認識のワーク』 その7 犯してしまった過去の過ちと後悔
自分で自分自身を未だに裁き続けている
「犯してしまった過去の過ち・後悔」をリストアップする。
『自己認識のワーク 』実践レポートシリーズ
前回 『その6 ファミリーインタビューと原家族の役割分析』
次回 『その8 葛藤のダイナミクスの自己分析まとめ』
【犯してしまった過去の過ちと後悔】
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高校から大学への進路選びの際に、純粋な興味を持っていた
哲学や物理学を学ぶ道ではなく、手に職をつけるための工学を学ぶ道を選び、
学者でなく技術者になったこと -
学生時代、一人を除いて親友をつくれなかったこと。
子供のころから上手く集団になじめず、ごく普通の青春らしい馬鹿騒ぎや、
学生らしい友達づきあいをあまり経験できないまま、大人になってしまったこと -
学生時代や就職活動、会社でのコミュニケーションで、
過度の緊張によって上手い受け答えや立ち回りができず、
微妙な雰囲気になったり、笑われたりした経験全て -
試験や仕事、創作活動で、最善を尽くせなかった経験全て
過去の過ちと後悔の自己分析
一つ一つ書いていくとキリがないほど、後悔している過去のイメージがあるので、
上記のような形でひとまとめにして書いてみた。
私の過去の過ちは、大きく2種類に分類でき、
一つは、人間関係で恥をかいた経験であり、
もう一つは、自分のアウトプットにおいて
納得のいくパフォーマンスが発揮できなかった経験である。
私の場合、「罪悪感」を感じている経験はあまりなく、
「恥」という狂気と、実力に見合わない「理想像の未達成」が
「過ち」の経験として心に刻まれている。
私は、「自分は他人に〇〇と思われていなければならず、
〇〇が達成できなければいけない」というハードルを自分で勝手に設定して、
それができない自分を自分で裁いているだけなのだから、
裁くことも、裁くことによる苦しみも、全て自分で生み出していることになる。
恐らく、このハードルは、「自分が正しくなければならないという欲求」
あるいは「正しくある必要性」と呼ばれるもので、
これについてスクールでは、
ほとんどの場合において、正しいこと=愛されることです。
と習っている。
つまり私は、家族や周囲の人に愛されるためには、
「他人に〇〇と思われていなければならず、〇〇が達成できなければいけない」と
幼少期に思い込んでしまったようだ。
恐らく、身体が弱く小柄なために、
自己主張がほとんど受け入れられない子供集団の中で、
身体が弱いままで、自分の発言力や地位、
愛されるべき存在価値を確立する戦略として、
学業成績や周囲の評判において、
常に一定のハードルを越え続けることを自分に課したのだろう。
「身体が弱く小柄で周囲より成長の遅い自分は、
常に特別なハードルを越え続けていなければ、誰にも愛してはもらえないのだ」
という思い違いが、すべての葛藤を生み出したのだと考えられる。
(その思い違いのおかげで、今の自分があるとも言えるのだが)
つまり根本の葛藤は、
「愛されたいのに、素のままの自分では愛されない」という錯覚ということになる。
人は、人として生きているだけで、本当に多くの存在に愛されていると云うが、
この葛藤を解放するには、それを心から実感する体験が必要なのかもしれない。