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『自己認識のワーク』 その6 ファミリーインタビューと原家族の役割分析

自分のこれまでの人生での主要な出来事の記憶のうち、特に印象に残っている記憶と、それに関する「ファミリーインタビュー」の結果、および「原家族の役割分析」(父、母、祖母、祖父、自分自身)についてまとめてみた。

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『自己認識のワーク 』実践レポートシリーズ

 前回 『その5 内なる葛藤』
 次回 『その7 犯してしまった過去の過ちと後悔』

 

【ファミリーインタビューと原家族の役割分析】 

幼少期(幼稚園~小学校低学年)

私: 追い立てられる者、自分のない者、弱者
 早生まれで、兄弟もなく、交通量の多い大通りに面した都会のマンションで育った私は、親の同伴なしでは危険で外を出歩くこともできない状況にあり、親とばかり接していて、親の後ろをついていくばかりの幼児だった。
 幼稚園に入ると、身体が小さく同級生よりも幼かったため、幼稚園の先生の後ろをついて回るか、一人で工作をしていることが多かった。
幼稚園の庭でやっていた球技には、体格の違いやルールを知らないせいで参加できず、集団のごっこ遊びではいつも格下の役回りばかりさせられ、対等と思える友達がいなかった。
 小学校低学年では、勉強もスポーツもノロマで苦手だったので、いつもからかわれ、いじめられていた。
集団行動では周りに遅れないようについていくのが精一杯で、いつ追いていかれるかと焦る毎日だった。
父: 傍観者
 海外出張が多く、家に不在なことが多かった。
親子として一般的なレベルで仲良くしており、私が幼すぎたためか、この頃はあまり怒られることもなかった。
 このころの父は、当時の私の眼には、
幼い私の扱い方がわからず困惑しているように映っていた。
なぜなら、父は、私の行動に何かしら問題がある(例えばトイレの始末が上手くできていないなど)のを見つけると、私本人ではなく母に向かって「この子に〇〇の仕方を教えてやれ」といって躾をさせることが多かったからだ。
このようなシチュエーションにたびたび遭遇していた私の中には、「なぜ父は自分で直接教えてくれないのか」という疑問、距離をとられ母越しにしか扱われない寂しさのような感覚が生まれていた。
(ファミリーインタビュー)
しかし、この点については、実は当時の父の中では、子供に対して「母親が教えるべき分野」と「父親が教えるべき分野」の役割分担が明確にあり(父自身の両親の分担の仕方に基づく)、単にそれが「母親が教えるべき分野」に該当するために、自分では直接教えることを控えただけだったことが後にわかった。
父自身の感覚では、「幼い私の扱いに困惑する」ということは全くなかったそうだ。
母: 追い立てる者
 早生まれであるために、周りの子供よりも成長が遅れており、ノロマで身体も弱かった私が、幼稚園や小学校の集団生活で追いていかれないよう、母は頻繁にヒステリックに私を叱り、教育していた。
私は産まれたままの能天気な気性から、厳しく追い立てられ、焦り、常に不安を覚え、現在にいたるまで心配性の性格に育ってしまった。
(ファミリーインタビュー)
しかし、この点については、当時、母自身も初めての子供である私をうまく育てられるか強い不安を感じており、加えて、赤ん坊の私に聴覚異常の疑いがあったことに起因して、私が順調に成長しているのかを非常に心配していたため、私を愛するがゆえに、子育てに対して余裕のない精神状態だったためであることが後にわかった。
母は、もしかすると私本人以上に必死だったのだ。
祖母: いつでも味方
 祖母と祖父の家には、両親とともに毎週日帰りで訪問していた。
祖母はいつも私の味方であり、私が怒られていてもフォローしてくれた。
おもちゃを買い与えてくれるのもほとんどが祖母だった。
 このころの私は、母には追い立てられ、
父には距離をとって傍観されていると感じていたために、祖母だけが何の葛藤もなく付き合える相手だった。
祖父: 厳しい権威者
 家族の中で一番怖い存在だった。優しい表情の記憶もあるが、怒鳴られることが何度かあったため、怖い印象がとても強い。
九九の覚えが悪く、怒られた記憶が特に鮮明に残っている。
私自身は、祖父の死後も、「私は祖父にはノロマで頭の悪い子供と思われていただろう」とずっと感じていた。
(ファミリーインタビュー)
しかし、実は祖父は、幼児の私の語彙の豊富さや、特定の遊びへの集中力の高さ(工作やレゴ、パズル、プラモデルなどものづくり系の遊びについては、2、3歳の時点でいつも2時間以上は飽きずに続けていたらしい)、2歳からハサミを使えたなどの点に言及して、「賢い子どもだから、教育が難しいだろう」と父にアドバイスしており、私の知らないところで、私を褒め、将来を期待してくれていたらしいことが後にわかった。

 

少年期(小学校高学年~高校入学)

私: 良い子、論客、追い立てられる者
 小学校3年生ころから、徐々に学校の授業がよくわかるようになり、授業で自分なりの意見を発言するのが楽しくなっていった。
相変わらず身体は小さくて弱く、ノロマではあったが、授業で目立つ生徒になり、同級生からも一目置かれるようになってきた。
 私はいじめられていた時代の無意識の自己防衛の中で、論理性や客観性でもって理論武装して自分を守ることを身につけていたので、授業でディスカッションやディベートなどをすると、負けなしだった。
これが私に集団生活での初めての自信を与えてくれた。
造形(工作)が得意であったこともいじめられっ子から脱却することに役に立った。
 私は頭が硬く、きまじめな子供であったので、いじめられっ子でなくなると、今度は非常に幼い正義感から、「悪いこと」をする同級生を見過ごせず、理論武装でもって積極的に戦う、委員長タイプの子供になってしまった。
演じていたつもりはなく天然だったのだが、典型的な「いい子」であった。
そのせいで、いじめられなくなったにも関わらず、相変わらず100%味方と思える対等な友達がほとんどできないままだった。
 高校受験を控え、中学から塾通いを始めた。成績は飛躍的に上がり、それは新たな自信の源にはなったが、体力が無く、大人に怒られるのをとても怖がる子供だった私にとって、塾通いは心身共に非常に辛く、「時間と体力が残らなくて何も好きなことができない」というストレスがどんどん溜まっていった。ストレスのせいか中学生で肺炎にもなり、それで塾の勉強が遅れ、受験が近づいてさらにストレスフルになっていった。
このころから姿勢も悪くなり(猫背気味)、自律神経失調症にかかっていたように思う。
父: リーダー、コーチ、批判者
 私が大きくなるに従い、徐々に私を叱ったり、批判するようになっていった。
運動嫌いの私にキャッチボールや水泳、自転車などを教えてくれたが、どれも私がへたくそで、運動神経のいい父と比べてあまりに上達が遅く、叱られることが多かった。
 父は家族で行動するときは強いリーダーシップを発揮していて、当時から尊敬していたが、私の意見をあまり聞いてくれない、逆らえない存在になってきていた。
 私には、この時期「父に自分の頑張りを否定された」と強く感じた経験が2つある。
一つは、いじめられっ子であった私が、しだいに集団内での地位を向上させ、中学において、同級生多数からの推薦で学級委員にあたる係に選ばれたとき、父に「なぜそんなくだらない役割を引き受けたのか」と言われたこと。
もう一つは、学校の成績について、「お前の成績は確かに悪くはない。だが、そこまで頑張ってまで取るほどの高成績ではない」という旨のことを言われたことだ。
 私はその当時、皆に認められ始め、
いじめられなくなってきたことにある種の達成感を感じていたと同時に、「頑張る」以外にいじめられないでいる戦略を見出せないままでいたので、この父の言葉による影響は大きかったように思う。
「そこまで頑張ってまで取るほどの高成績ではない」と言われても、「頑張らない」という選択肢を選ぶことはできないため
(またいじめられっ子に逆戻りすることになるから)、「いじめられない」と「父に認められる」を両立するには、「より一層頑張って本当の高成績をとる」という選択肢しか選びようがなかったのだ。
これが、学業や仕事において自らに異様に高いハードルを課し、自分で自分を痛めつける悪癖の始まりだったのかもしれない。
母: 追い立てる者からスパーリングパートナー、理解者へ
 相変わらず、私をヒステリックに追い立てる存在ではあったが、徐々にその傾向が和らいできていた。
(ファミリーインタビュー)
母当人によると、私が小学校3年くらいのころから、「この子は思ったよりちゃんとわかっている、もう大丈夫だ」と感じるようになったそうで、そのころから徐々に不安が減っていったらしい。
それに伴い、私の理解者として側面が増していった。
 その一方で、私にはある程度知恵がつき、納得のいかないことで叱られると母に議論をふっかけるようになっていた。
そのころの私は、「論理性と客観性を持って導かれた結論は、たとえ身体が弱くノロマな私の口から出たものでも、尊重されねばならない」と考えるようになっていたので、「挑戦してもいい大人」=議論のスパーリングパートナーとして母を扱い、子供なりに理論武装して何度も戦いを挑んでいた。
後から考えると、これは本当にちょうどよい論理的思考のトレーニングに
なっていたように思う。
祖母: いつでも味方
 祖父は亡くなり、祖母だけになったが、祖母は相変わらず味方一辺倒の存在だった。

 

青年期(高校~大学院)

私: 良い子、完全主義者、追い立てられる者
 中学の後半から特に高校時代は、自律神経失調症がひどくなり、常にエネルギー不足のような状態だった。
大学へは内部進学だったので、受験のストレスからは解放されたが、とにかく体調が悪く、日々を楽しむことができず、小学校や中学校のように、集団の表に出て活躍することもなくなり、再び自信を失っていった。
 中学の後半から、完璧主義の気質が出てきていて、エネルギーが足りないくせに、妙に完成度にこだわり、一方で失敗を恐れる傾向が強くなった。
 大学からは恐ろしく課題の多い学科に入ってしまい、相変わらず体調が悪い上に、完璧主義のために適当なところで妥協できず、課題に追い立てられて徹夜ばかりしていた。
ますますエネルギー不足になっていき、毎日がストレスフルだった。
あまりに辛く、自分には向いていない分野だと感じたため、転科も考えたのだが、父に「一度決めたことを途中で投げ出すな」と一蹴され、逆らうことができなかった。
 これ以降私は、「自分は大学進学時の進路選択に失敗したのだ」と捉え、それが心のしこりとして長い間解放できず残っていた。
私は本当は高校時代から既に、純粋科学や哲学に惹かれ、関連分野の読書に耽っていたが、「哲学では食っていけない。現実社会の問題を実感する経験なしにいきなり哲学をやっても意味がない」という父の忠告に盾突けるほどには、まだ明確な人生のビジョンを描けてはいなかった。
 大学院に入ると、研究や論文を書くことには適性があったので、多少なりともやりがいを感じることができるようになり、モチベーションと自信を若干取り戻したが、忙しさはさらに増し、健康状態や精神状態は悪化するばかりだった。
 失敗を恐れるがために、人見知りが激しく、緊張しやすく、コミュニケーションが苦手だったため、就職活動にはかなり早期から不安を感じており、事前に徹底的に準備・対策をとることで一応の成功を得たが、就職活動期間はこれまでの人生でも最もストレスフルな時期として心に深く刻まれてしまっている。
父: 逆らえない壁、権威者、批判者
 自律神経失調症のせいで慢性的なエネルギー不足であり、父の理想(恐らく無意識的な)である「スポーツマンで快活な息子像」とかけ離れて成長した私に対し、父の不満は強まっていった。
たびたび批判を受け、反論しても聞き入れられず、怒鳴られるのが嫌で逆らえなかった。
 父の言うことはおおむね正しい場合が多かったが、私の体調不良である現状への理解が圧倒的に不足しており、従おうにも従えないような厳しいことを言われるばかりだった。
私にとっては、父は逆らえない障害として長く高くそびえたっていた。(それが「父親」の普遍的な役割なのかもしれないが)
 父は論理性も人並み以上に優れてはいたが、基本的に論理より感性を重視するタイプであり、私が成長するにしたがって論理性に傾倒していった点にも不満を感じていた。
頻繁に「理屈っぽい」と批判され、「こんな風に育つなら大学院に入れるべきではなかった」と言われたこともあった。
 私は、父が自身の感性のみに立脚して、
根拠の不完全な主張を押し付けてくることがたまらなく嫌だった。
この点については、何回口論とも議論ともつかない言い合いを繰り返したかわからない。
しかし、そんな口論の中で、スピリチュアリティに話題の矛先が向かうこともあり、
帰国子女であるために幼少期から本物の宗教性に触れていた父と、徹夜になりながらも、本当に意義深い話ができた夜も多々あった。
この点については、私の大きな財産になっているように思う。
母: 理解者、サポーター、世話役、スパーリングパートナー
 理解者としての性質が強まっていき、
大学時代では課題で忙殺される私をサポートしてくれた。
母との信頼関係は、大学に入って以降の方が、強まったように思う。
 一方で、忙しくなる生活の中で、母のサポートに依存し過ぎるようになってしまっていた。
このころの私には、アンバランスな完璧主義の奴隷となり、身体を壊すレベルまで課題に取り組む反面、身の回りのことをほとんど母に頼ってしまっている自分への自己嫌悪と不安があった。
祖母: 傍観者
私が忙しくなり、祖母の家に行く頻度がかなり減ってしまった。祖母からはほとんど何の影響も受けなくなった。